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科学技術社会論とは、科学や技術を社会的なプロセスとして研究する研究分野であると私は考えています。おそらくこれがもっともニュートラルで、もっとも包括的な表現だと思います。したがって、科学技術社会論には歴史的、哲学的、倫理学的、社会学的、人類学的、政治学的、経済学的などの様々なアプローチがありうると思います。様々なアプローチや学問分野をとくに排除せずに、全部含めてしまって構わない、というのが私の立場です。
そして、このような考えは、少なくとも北米における科学技術社会論、ないしSTSの大学における制度化(つまりこの分野の大学院プログラムや学科)の実情に即しているように思われますし、4Sのようなこの分野の学会の現状にも当てはまるように思います。
しかしながら、このような考え方は必ずしも日本では主流ではないようです。とくにSTSを科学史や科学哲学や科学社会学と差異化し、問題解決型の研究分野として特徴づけようとする傾向がかなり強くあるように思います。そして、そのようなときにギボンズのモード論が援用されることが多いようです。
私はこのような考え方を採用しません。その理由は二つあります。
第一の理由は、そのような科学技術社会論の考え方はほかの国の実体と合わず、日本における当該分野の孤立化を招く危険があるからです。しかし、これはそれほど大きな理由ではありません。
より重要なのは第二の理由です。問題解決型の分野には学問分野としての発展が望めない、ということです。社会と科学の間に発生する問題を、それが発生するごとに解決しようとするような研究分野では、研究の仕方がその場限りのアドホックなものになってしまいます。そのなかでは次世代の研究者を養成することができません。学問分野は、社会から問題を与えられるのではなく、むしろ問題を発見し、定式化することができるべきだと思います。
もちろん、そのことは、社会とのかかわりを持つべきではない、ということではまったくありません。分野内で発生する問題を自己言及的に閉じて自問自答することに終始するような学問分野は存在意義はないと言って良いでしょう。しかし、学問分野として発展するためには、一定程度の自立的な発展が必要です。それの究極的な目標は、科学と社会の間に問題が発生したときに、それに取り組むことができるようになることだとしても、将来どういう問題が発生するかどうかは分からないうえに、そもそも問題が顕在化しないこともある以上、隠れた問題を発見することも学問分野の役割であるはずです。さらに言えば、問題が発生する前に、問題を回避することがもっとも望ましい。
だから科学技術社会論は、発生する問題に対して答えることを続けるのではなく、学問分野として、自律的な内実を備えるべきです。それは、既存の様々な分野の融合という形をとらざるを得ないでしょう。その意味で、科学技術社会論から、科学史や科学社会学などの既存の分野を排除するのは大きな間違いであると思います。
もし学問分野としてのバックボーンを備えず、発生する問題に対して後追い的に解決を試み続けているだけであれば、結局、科学技術社会論は、たんなる実践的な活動におわり、それに無理やり学問としての体裁をつけているだけになってしまうでしょう。それは分野としての信頼性を低め、人材の育成を不可能にするでしょう。そして、他の国と比較したとき、日本のこの分野が圧倒的にみすぼらしいもので残り続ける、という事態になるでしょう。
その事がSTS分野における大学院教育に関して具体的に意味するのは次のような事だと思います。一つは、既存ディシプリンにおけるトレーニングの重視です。歴史学、社会学、人類学、哲学等のすでに確立され、歴史のある専門分野のどれかにおいてある程度トレーニングを受けることによって、そのような分野における研究評価のスタンダードや研究方法、研究技能を身につけておくことが必要だと思います。 第二に、それと同時に、STS自体におけるディシプリン的なトレーニングが必要だと思います。STS自体はディシプリンではなく、学際的な領域であり、研究方法のトレーニングや、研究の評価において、かならずしも十分機能しないところがありますが、他方で、STSの正典的な研究と、そこにおける基本的な考え方や、いくつかの理論枠組みが出現しつつあります。今後のSTS的研究は、それらの既存のSTSの研究を踏まえ、それらにもとづいた理論的な発展を目指さなければ分野としての発展は難しいと思います。
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